写真 大紀元
【脱党支援センター美姫訳 猪瀬晴久編集2019年1月10日】
司馬遷曰く:「人は必ず一度は死ぬものである。泰山より重いか、鴻毛より軽いか、生きるか、死ぬかの選択による」 古代の義士は、道義における生と死の選択に迫られた時、死を選ぶという潔さがありました。先秦時代には、このような故事を多くみることができます。
田卑:反臣に付和せず
春秋末年、晋国の大夫・趙簡子の家臣、中牟の県宰であった佛 肸 が、反乱を起こしました。 焚火の上に水を張った大鼎を据え付け、佛 肸 は「私に追従するならば封地を得られるが、さもなければ窯ゆでにする」と、居並ぶ士大夫らを恫喝しました。 士大夫らは沈黙し、服従の意を示しました。 そのような中、田卑は次のように言いました。
「道義で死ぬべきならば、斧鉞(ふえつ)の誅罰を逃避せざるべし:道義をもって出世できないのならば、高い地位の官職と厚い禄を受け取らないこと。 道義に反して生きながらえ、仁徳に背いて金儲けをするよりも、ゆで死にする方がましである」と言いながら、襟を正し、鼎に飛び込もうとしました。それを見た佛 肸 は彼を引き留め、解放しました。
趙簡子は、軍隊を派遣して中牟の反乱を鎮めました。 佛 肸 に従わなかったことに対して、田卑に賞賜を与えようとしました。 しかし、「何千万人もの人々の中から、一人だけに賞賜を与えることは、賢明とは言えません。もし、わたくしが賞賜を受け入れたならば、中牟の人々は恥ずかしくていたたまれなくなるかもしれません。それは仁義に反します」と、田卑は固辞しました。
さらに、「道義に則り行ったことが、人を凌駕することになってしまっては、道義にかなっておらず、ここにとどまることはできない」と、南方の楚国に遷居してしまいました。
易甲:道義を貫く
春秋時代、楚国の楚平王の皇太子であった「建」は、臣下・費無極の誣讒(ふざん) により、他国への逃亡を余儀なくされ、後に鄭国で殺害されてしまいました。 建皇太子の息子である「勝」も、国外に亡命していました。 楚恵王が即位した後、尹子西に「勝」を呼び戻させ、白という領地を与えました。 そのため『白公』と呼ばれるようになりました。
図:東漢時代の戦車
白公勝は楚国が父親を追放したことに対して、恨みを抱いていました。そして、恵王と子の西の殺害を企て、実力者である易甲に助力を要請しました。 易甲を手勢で取り囲んだ上、「協力すれば、地位と高禄を得ることができるが、もし拒むならば、この者たちが貴殿の命を奪うであろう」と、勝は言いました。
易甲は微笑みを浮かべながら、「私たちは義とは何かを議論していたのでありませんか?白公、あなたは忘れてしまったのですか?天下を取ることは出来るかもしれませんが、それは道義にかないません。あなたは主君を葬りたい―それを私が助ける…これは私が追求する義ではありません。ですから、利益で誘惑しても、武力で脅しても、私が屈服することは決してありません。武器を取ってあなたに抵抗することは愚かであり、言葉をもって約束することも凡庸なことです。覚者は正義のためと言って戦うこともなく、平静に己の死を受け入れることでしょう」
突き刺さる剣を避けることもなく、易甲はその場に踏みとどまりました。
晏子:二君に仕えず
紀元前548年、斉庄公が自分の妻と関係を持ったことを知った斉国の大夫・崔杼(さいちょ)は、大臣の慶封を使い、庄公を暗殺しました。 その直後、崔杼は血盟の誓いを立てるよう士大夫らに命じました。 士大夫らは剣を外し丸腰で、そぞろに太廟へと入っていきました。
晏嬰(あんえい:紀元前 578 年―前 500 年)、字仲、謚平、 史称晏子、春秋後期外交官、思想家(公有領域)
上大夫・晏子が宣誓を行う番となりました。そこで晏子は、「崔杼殿は大逆無道を行い、主君を亡きものとされた。王道を踏み外し、崔・慶殿に追随するものは報いを受けることでしょう」と述べたのです。 崔杼:「晏子殿が言葉を変えるならば、共に国を治めることとしましょう。
しかし、変えないと申されるならば、この場で死んでもらいましょう。剣で刺したうえ、晒しものにします。よく考えてみてください」
晏子:「剣による脅迫は臆病もののやることあり、美徳を失います。本当の義士は、理不尽な方法を使うことなく、真の幸福を求めます。この期に及んで自らの言動を撤回し、ご貴殿の祝福を求めるのでしょうか?剣で刺され晒しものになったとしても、私心を変えることなどありません」
崔杼は晏子を捕えようとしましたが、部下に静止されました。ひとり太廟を後にした晏子は、待機していた馬車に、何事もなかったようにゆっくりと乗り込みました。馬車夫は早馬に鞭を打ち、一刻も早くこの場から離れようとしました。すると、晏子は彼の手に触れ、「虎や豹は山深い密林に住み、彼らの生命は天によって決められている。速く逃げても何日多く生きるか分からない。遅いと言っても何日早く死ぬとも限らない」と諭しました。そして、悠々と去って行ったのでした。
斉国太史は【崔杼弑(しい)庄公】という庄公暗殺の記録を書き記しました。これを耳にした崔杼の怒りは大きく、直ちに修正するよう太史に命じました。しかし、太史が応じなかったため、彼を処刑しました。太史の一番上の弟、二番目の弟も、それに続いたため、処刑されました。三番目の弟になったとき、ついに崔杼は諦めました。 このとき、太史の氏族である南史は、太史の全家族が処刑されたと考え、【崔杼弑庄公】という言葉を竹簡に書き込もうとしていましたが、それが記録され残っていたことを知りました。
参考資料: 1:漢時代劉向「新しい序文」